『この世界に絶対はない。』
近頃の世界ではそのように叫ばれることのほうが多いだろう。
多様性が求められる社会において、『絶対』を見つけることはとても難しい。
しかし相対論者諸君よ、一方でそれは次のことも包含することに気付かれたい。
それは、『絶対』に『絶対』がないともいえない
ということである。
お分かりになられただろうか?
『絶対』がないことを認めると、そのこと自体が『絶対』でないことも認めないとならない。
つまり、この世界には少なからず『絶対』であるものも存在する。
では、『絶対』である部分はどこだろうか。
たとえば、『1たす1は2』は絶対ではないだろうか?
これを絶対ではないと否定できるだろうか?
その他にも、『今そこにここにあるものは0.1秒後にもここに存在する』は絶対ではないだろうか?
そう、こういった自然界の当たり前の法則は、おおむね『絶対』として認められるのだ。
では、何が『絶対』として認められないか。
たとえば、『頭が良い人は、仕事ができる』は認められないだろう。
他にも、『昨日できたから、今日もできる』も認められないだろう。
そう、これらは自然界のそれらしい法則ではあるが、例外が存在するのである。
この、『絶対』を認められるものと、そうでないものの差は何だろうか。。。
それはおそらく『どのくらい当たり前の法則なのか』の違いである。
先の例でいうなら、『頭が悪くても、仕事ができる』ような人の集団にいるひとでも、
『1たす1は2』が成り立たない世界には居ないし、
『今そこにここにあるものは0.1秒後にもここに存在する』が成り立たない世界にも居ない。
結論、物事のそれが『絶対』と言えるかどうかは、各人の主観によるものであるということである。
一方で、今度は絶対論者諸君にお伝えしたいことがある。
『絶対』といえるかは、主観であるということの究極の事例だ。
それは例えば、実は数学の世界では、『1たす1は2』は当たり前ではないこと。厳密に定義された前提のもとになりたつものであり、たとえば『1+1≡ 0(mod2)』という世界だって存在している。
さらに、ミクロな宇宙論の世界では、『今そこにここにあるものは0.1秒後にもここに存在する』も絶対的なことではないこと。素粒子の状態は確率的に決まっている。今ある状態が、このあとも継続するかどうかは絶対的ではない。
いずれにしても、物事を絶対的ととらえてしまう人には捉えられない世界だろう。
『そんな極論を言われても』と思うかもしれないが、これが世界の真実だ。
そして、ここで良い気付きを得ることができる。
それは、『どのくらい当たり前の法則なのか』は主観によるものであり、
言い換えれば、『人によってどんな前提のもとで話しているか』
で絶対的か否かが決まるということだ。
前提条件次第でどんなことも『絶対』になりうる。
『1たす1は2』を『絶対』と主張する人は、
(一般社会における計算として)という前提を勝手に敷いている。
『頭が良い人は、仕事ができる』だって同じことだ。
この主張を『絶対』と主張する人は、
(だいたいの人の集合知として)(または一部の研究などの統計値によって)
という前提条件を置いている。
どちらも前提条件そのものに不確実性を残しているし、
その前提条件を共通で捉える機会を持たずに話を進めてしまうから、
絶対論者と相対論者はぶつかってしまう。
すくなくともここで『絶対』なのは、
双方とも、前提条件を確認しない馬鹿であることくらいだろう。
『この世界に絶対はない』とする『絶対』論者諸君へ
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