良いことをすると偽善と言われる。
そんな経験はないだろうか?
せっかく良いことをしているのに、偽善だと揶揄されるのは些か納得がいかない。
しかし、偽善だと指摘する人のことを、私は認めている節がある。
それは、彼らは人間の行いの本質の全てが利己であることを、論理ないしは直感で理解しているからだ。
彼らは人が利他を行った動機が、利己であることを見抜いている。
そして、自らの行いもまた同時に利己であることを知っている。
一方、全くそのことを理解していない人間もいる。
「私は良い人」「悪い人はいない」「心の底から利他に決まっている」そんなことをいう人がいる。
思考が浅いのか鈍いのか平和ボケなのかわからないが、一定数存在していると思う。
しかし、それはそれでたいそう幸せな人生だとは思うが、道理を弁えた大人だとは思えない。
結局、この世界はほとんどがこの2種類の人間に大別されると思う。
利他を偽善と揶揄する人種、または利他を本心だと信望している人種だ。
あなたはどちらだろうか??
ちなみに私は紛れもなく、後者の利他を本心だと信望する人種であった。
だが、この世界に失望して以降は、完全に前者の利他を偽善と揶揄する人種となった。
利他とは圧倒的な利己、その名を偽善と呼ぶ。
この道理の前では、単なる優しさだけが偽善ではない。
こんなことを言うと、利他を本心だと信望する諸君には非常に悲しいことに思えるかもしれないが、
友情も、愛も、平和も、そのすべてが偽善であると説明できるのだ。
そして他人のこれを揶揄する。
しかし、、、しかしだ。これではあまりにも悲しすぎる。
だから、私は再び利他を本心だと信望する人種戻ろうとした。
でもそれはできない。なぜなら同時に道理を弁えた人間でいたいからだ。
そう思った時に1つの答えが見えた。
偽善だと認識して偽善を行う
これでいいんじゃないだろうか?
偽善だと認識することは辛いことではあるが、
それを認識したうえで揶揄しなければいいじゃないか。
そもそも揶揄する原因は、個人の認知不協和から来ている。
(偽善を行う相手)∧(偽善を悪とする風紀に逆らえない自分)
に不協和が感じるために、変更のしやすい方を変え、
(偽善を行う相手を否定)∧(偽善を悪とする風紀に逆らえない自分)
とすることで調和をとっているに過ぎないのである。
偽善とは、利他に見せかけた圧倒的な利己。
言い換えると、win-winのことである。
であれば、どこに悪いことがあるのだろうか。
揶揄する理由なんてどこにもない。
揶揄だけして、win-winを目指せない人間のほうが、
よっぽど怠惰ではないだろうか。
win-winを目指せば、どんどんこの世界はwinで溢れる。
それが、結局、愛と称賛され平和を導く道理である。
愛は偽善。だが、偽善もまた愛。
偽善者でいいじゃない。
偽善のすすめ②~偽善とは愛である~
人生論
